武禅修行へGO!

武禅修行へGO!

3.武道修行者の、正しい禅修行 Presented by

行住坐臥(ぎょうじゅうざが)



 電脳山養心寺、山門前には、小さな道場がある。ここは武道修行に迷いを生じた者たちが、最後に行き着く駆け込み道場だ。山門前道場長の林KAZが留守の時(昼間は自分の稽古で、ほとんど留守で居ない時)は、代わりに老師が対応してくれる。老師は小柄で背筋がピーンと伸び、笑顔を絶やさない。駆け込み武道修行者のほとんどは、この老師に悩みを相談して帰って行く。この日もまた、さ迷える武道修行者が一人やって来た。

養心寺山門前道場


 ここに来れば何とかなる。ネットサーフィンで波に乗って、ここまでようやくたどり着いた。道場長の林KAZに、武道の極意を教えて貰えば、僕も達人になれるはずだ。

「すみませ~ん!どなたか居ませんか?」

・・・返事がない。せっかくここまで来たのに留守か。僕は運がない。そう思い、帰ろうと振り返った。すると、背筋がピーンと伸びた小さな老人が立っていた。

「こんにちは、僕はカズキと言います。道場長に会いに来ました。僕は武道修行で迷ってばかりで、ぜんぜん強くなりません。道場長に武道の極意を教えて貰らい、すぐに達人になって、世間の奴らを見返してやろうと思っています。」

『・・・、そうか。林KAZは留守じゃよ。ようやく自分の修行方法が見付かったと飛び出して行きおった。このパターンは三ヶ月は帰って来んよ。』

せっかくここまで来たのに空振りか・・・。やっぱり僕には運がないらしい。帰ってYouTubeでも見ながらポテチとコーラかな。「・・・そうですか。では帰ります。」

『達者でな。そうじゃ、おぬしの“運がない”と思う癖をなおしたら、また来なさい。』

 三秒ほど思考が停止した。老人は、ズバリ僕の気持ちを言い当てた。もしかしたらこの老人は、道場長の師匠かもしれない。このまま帰るのは勿体無い。せっかく来たんだ。何かきっかけを捕んで帰りたい。もう少し頑張ってみよう。

「老師、失礼しました。お願いです、稽古を付けて下さい。僕に武道の極意を教えて下さい!」

『最近流行りの自己中心的な考えじゃな。武道の極意とは自分で捕むもの。教えることはできん。稽古を付けようにも、今のおぬしでは稽古にならん。ここは禅寺の道場じゃ。少し坐禅を組んでいきなさい。』

「えっ、ざ、坐禅ですか?」

 僕は正直戸惑った。坐禅なんかしたところで、強くなるわけがない。それなら筋トレをしたり、スパーした方がいいに決まっている。それよりも、ここでは老師の会得した武道の極意と技術のコツを聞いたほうが得に決まってる。

「老師、坐禅なんか時間の無駄です。それよりも何か技を教えて下さい。老師の持っている技術のコツをお聞かせ下さい!」

『バカも~ん!喝じゃ!!』

ビクーン!!アタマが一瞬真っ白になった。老師の小さな身体から、こんなに気迫に満ちた喝が出ようとは、思っても見なかった。予想していなかった現実に会い、僕はその場に立ちすくんだ。

『残念じゃな。ではお帰り願おうか。』

僕は我に帰った。アタマが真っ白になったおかげで、こう思いだした。僕がまちがっていたのかもしれないと・・・。

「すみません、老師。失礼しました。」

そうは言ったものの、坐禅を組む気は起きなかった。老師に謝ったものの、気持ちとしては矛盾した状態だった。

『ほう、おぬし、なかなか見処がある。』

えっ?予想外の言葉に、僕のアタマは再び真っ白になった。僕の何がよかったのだろう?

『帰るのは、ワシの戯言(たわごと)を少し聞いてからでもいいじゃろう。さあ、中へ。』

 僕は老師の言うがまま、吸い込まれるように、道場の中へと入っていった。


坐禅修行


 老師は僕に、白磁の湯飲みでお茶を出してくれた。

『武道修行者の中でも、林KAZほどの劣等生は、見たことがない。』


老師の唐突なディスに、僕はビックリしてしまった。気づけばなぜか、道場長をフォローしていた。

「老師、道場長は27歳のクロスロードで勘を取り戻し、達人の切符を手に入れたと聞きます。さらに運よく25歳の頃に、一人立ちを模索したことから、30代のパスポートを手に入れました。その後30代波瀾万丈の旅では真っ向勝負を挑み、十二分に力をつけたと聞きます。それなのになぜ劣等生なのです?」

『林KAZが、坐禅を始めたのは36歳のころじゃ。遅い、遅すぎる。』

「もっと早くから坐禅をすればよかったということですか?」

『早ければよいという理由だけではない。奴は幼い頃、祖父の方針でお寺の運営する保育園にあずけられた。その頃すでに坐禅を体験しとる。また幼い頃は、アニメ一休さんを見てすごし、渡辺謙が主演をつとめた大河ドラマ、伊達政宗が大好きで、梵天丸が禅寺にあずけられ成長していくところをよく覚えておる。なのにじゃ、それまで何にもピンと来とらん。そこが劣等生たる所以(ゆえん)じゃ。』

「老師が何を言っているのか、よく分かりません。道場長の坐禅を始められる話しと、幼い日のエピソードは、何も関係していませんよね?」

『バカも~ん!喝じゃ!!』

ビクーン!頭が一瞬真っ白になった。老師に渇を入れられると、なぜかこう思ってしまう。僕がまちがっていたのかもしれないと。

『うむ、おぬしはやはり見処がある。そうじゃ、これから昔の良いお話しをしよう。』

「ありがとうございます!」

老師は坐禅修行に取り組むことにした、合気道の藤平光一先生の話しをしてくださいました。




一九会を知る

 学校も一年休学し、とにかく肋膜炎の症状がおさまるまでは、じっと田舎で我慢をしていなければならなかった。病人にとっては最高の療養環境とも言える田舎の景色だったが、人間は氣が病んでしまえば身体も弱くなるものだ。
 しかし、まさか生涯をそんな状態のままで生きていくわけにはいかない。それだけは絶対に嫌だと思って悩んでいた。
 自分にとって、悪いのは肋膜だけ。そこが決定的に弱いということは十分わかっていた。したがって、これをなんとかしなければいくら悩んだところでどうにもならない。私は無意識のうちに、心の拠り所を探すことから始めたかったのだろう。
 そこで、肋膜が少し治りはじめ、身体が楽になると実家にあった蔵の本_田舎で、しかも昔の古い家だからいくらでもあった_を片っ端から引っ張り出して、読みまくった。意味もわからず仏教書から聖書まで・・・とにかくむさぼるように本を読む毎日だった。
肋骨で学校を一年休み、とにかくこのままではどうしようもない、自分はこのままこんな人生を送るのかと、あせりにも似た気持ちだったのである。
 それから一年休まされている間には、多少なりとも氣が強くなってくる。そこで、身体が弱いから、せめて何か勉強をしなくてはならないと思ったことも、蔵の本を引っ張り出した理由なのかもしれない。
 おもしろいもので、本を読んでいるうちは自分がよくなったような氣がする。しかし、当然ながら本を置いてみたら元の木阿彌(もくあみ)。何も変わりはしない。
 いくら本を読んでみたところで、いくらすばらしいことがそこに書いてあったところで、実際に体験しなければ自分の身体は治らない、そう思ったときに、たまたま妹が持ってきた一冊の本があった。
 『おれの師匠を語る』という本を神田の古書店で見つけてきてくれたのである。
 これは小倉鉄樹(おぐらてつじゅ)という先生が、自分の師匠である山岡鉄舟について講演したものを、石津寛という有名な方が本にしたものだった。
 簡単に言えば、山岡鉄舟の一代記ということになる。
読んでるうちに、幕末から明治を生き抜いた剣豪・山岡鉄舟の生き方に感銘を受けた。欲もなく、何事にも捨て身でぶつかる姿勢が魅力的だった。なかでも一番感心したのは、自分で納得しなければ承知せず、とことん自分で体験するということだった。
 私もそういう生き方をしたいと切実に思った。
 残念ながら、当時、すでに山岡鉄舟の春風館道場は存在していなかった。
 「もしも今あったなら、訪ねてみたかったな」 そんなことを考えていると、本の一番最後に一九会道場が中野にあると書いてある。それは小倉鉄樹先生が中心になって、お弟子さんたちを集めてつくった道場で、小倉先生もご存命だという。
 私は即座に、こういう場所があるなら、ぜひ一度、修行をしてみたいと思った。いてもたってもいられず、すぐ飛び込んでいった。
 もちろん、そんな無謀な話は、親になどできない。肋膜なのに、そんなことはとんでもないと、猛反対されるのは目に見えていたから、親にも内緒で行った。
 それが、今日の私がある、最初の出来事だった。自分の心と身体の弱いところをよく知っていたから、それを何とかしなければいけないと思って飛び込んだ。
 それが私の原点である。それだけしかない、と言ってもいい。人生は、そんな小さなきっかけで、大きく転換していくものなのだ。

藤平光一著:氣の確立「一九会をしる」P21~23
矢印マーク  藤平光一著:氣の確立


達人の背中を追いかけ方、達人の切符の使い方が記されている。


人生は、小さなきっかけで、大きく転換していくもの


『どうじゃ?参考になったか?』

「はい!参考になりました。とにかく坐禅をすれば、達人になれると言うことですね!」

『バカも~ん!喝じゃ!!』

ビクーン!頭が一瞬真っ白になった。僕がまちがっていたのかもしれない。そう思っていると・・・。

『うむ、おぬしはやはり見処がある。大切なことを一つ教えておこう。』

「ありがとうございます!」

『そうやって結論を急いで出してはいかん。結論が出る過程に、いろいろなヒントや、隠された意味(寓意)がある。それらを見えるようにするものが、勘や直感というものじゃ。』

「老師、老師の言うことがよく分かりません。勘の良さとは、僕が先ほど結論を早く出した、思考回路のことではありませんか?」

『・・・なるほど、そこまでおぬしの勘は鈍っておるのか。困ったもんじゃのう。おぬしはただの横着者じゃ。何の思慮もなく、配慮もない。ただ結論を急ぎ、早く結果と成果を出そうと焦っているだけなんじゃよ。』

ガーンと来て、グサッと刺さった。今までここまで傷つけられる物の言い方と、ディスに出会ったことはない。そうだ、これは怒ってもいいタイミングだ。今まで散々ジジイにやられて来たんだ。お返ししてもいいだろう。今度は僕が大声で渇を入れてやる。ジジイの心臓を破裂させてやる。

そう思って息を思いっきり吸おうとした瞬間だった。

『喝じゃぁ!!』

ビクーン!!!先に喝を入れられてしまった。恐るべし、老師。老人の心臓を破裂させようと思い付き、大声を出そうとしたのは、やはり間違いだった・・・。

『うむ、おぬしはやはり見処がある。もう一つ、大切なことを教えておこう。』

「ありがとうございます、老師、恐れ入ります。」

『思い付きで行動してはいかん。必ず失敗する。思い付きとは助平心のことじゃ。世の中も女心も同じようなもんじゃ。助平ではダメじゃ!愛がなきゃいかん。よく覚えておくように。』

「ありがとうございます!」

礼を言った後、今まで僕に彼女が出来なかった理由が、ここにあるような気がした。思い付きは失敗する。思い付きとは助平心のこと。僕は只の助平だったのか。そりゃあ女にモテないな・・・。

「老師、僕はどうすれば思い付きで行動することや、助平心が出るのをなおせますか?」

僕の質問に、老師は何も答えず、にこやかに僕に微笑んでいる。あっ!そうか、坐禅だ!そう思った瞬間だった。

『それが勘や直感が働いた時なんじゃよ。』

「ありがとうございます!」

『うむ、おぬしはやはり見処がある。もう少し坐禅について、老人が戯言を話すとしよう。』

「ありがとうございます!!」

老師は、合気道の達人、塩田剛三先生のエピソードを語って下さいました。




道中に静を持す


 禅は静中に静を求めるとすれば、合気道は動中に静を持すことです。
 合気道の技には当然動きがあります。どのような動きの中でも、常に素直な心を失わず、平常心を保つことです。
 合気道は元来相手の動きに自分を合わせて動き、また相手の力に逆らわず、むしろ相手の力を自分に取り入れて、ときにはその相手の力を誘導するだけで、ときには自分に取り入れた相手の力に、自分の力を添えて相手を制するのです。
 この間、瞬時でも素直な心を失うと、相手の動き、相手の力の流れを見失い、それとぶつかり合ったり、ずれたりして、技の効果を殺してしまうことになります。この場合、自分のほうが力が強ければ、その力で相手をねじ伏せられるかもしれませんが、それは合気道で制したのではなく、力で勝っただけです。
 動中に静を持してこそ、相手の力の流れがよく見えてくるのです。

塩田剛三 塩田泰久共著:塩田剛三の合気道人生P28(2) 動中に静を持す
矢印マーク  塩田剛三 塩田泰久共著:塩田剛三の合気道人生


塩田先生の言葉は誠実。ここにも達人の切符の使い方が記されている。




常に素直な心を失わず、平常心を保つこと


 老師のおかげで、分からなかったことが分かりだした。人生は、小さなきっかけで、大きく転換していくもの。人生の転換するところを見抜くのが、勘や直感であること。勘や直感を働きやすくするには、常に素直な心を失わず、平常心を保つことが大切なこと、だ。

「老師、ありがとうございました。お陰様で極意を得ました。あとは勘や直感を育てるために、坐禅や武道の稽古を一生懸命励みます!」

『うむ、そうかい。』

「さようなら!!」

『うむ。』

三ヶ月後、再び養心寺山門前道場へ


「老師!老師は居ませんか!?」

『老師は留守だよ。昔のお弟子さんのところへ稽古をつけに行ったよ。たしか、ハワイだったかな。帰りは丁度一か月後だよ。』

「えーっ?居ないのか・・・残念。」

タイミングが悪いなぁ。しかもハワイだって、いい身分だよ。まったく・・・。僕がふとそう思った時でした。

『はじめまして、養心寺山門前道場、道場長林KAZです。ここに来たってことは、君も武道修行者だね?』

「はい、そうです。僕の名はカズキと言います。よろしくおねがいします。」

『老師が帰って来る頃に、またおいでなさい。それじゃあね、お互い武道修行をがんばろう!』

道場長は爽やかにこの場をおさめようとした。しかしここで帰るわけにはいかない。僕は別に老師にこだわりはない。道場長でもいい。とにかく今の悩みを解決したい。早く楽になりたい。だから僕の話しを聞いてくれ。

「あっ、待ってください!僕は三ヶ月前に道場に来ました。その時道場長はご不在で、老師にありがたいお話しを頂きました。その時、僕は坐禅と武道の稽古を一生懸命励むと決めました。しかし、坐禅と武道を頑張れば頑張るほど、なぜか日常生活で、ゴタゴタや面倒なことが起こって、修行どころではなくなるのです。これは何でしょうか?」

『・・・なるほど、君はせっかちだね。』

道場長のぶっきらぼうな物の言い方に、少しイラッと来た。何で失礼な奴なんだ。煮え繰り返る肚のなかを表に出さないように、集中している最中だった。

『カズキくん。今の君の気持ちは、私の気持ちだよ。』

ドキッ!!!えーっ?怒っているの?僕は焦ってすぐに謝った。

「す、す、す、すみませんでしたぁ!!」

『まあまあ。さあ、どうぞ中へ。お茶でも出そう。』

「ありがとうございます。」

道場長のお茶は、老師の時と同じ、白磁の湯飲みだった。お茶を頂きながら、道場長に、今までの経緯を丁寧にはなした。

『なるほど、私の話しは老師のように参考になるかわからないけど、聞いてみるかい?』

「お願いします!!!」

道場長は塩田剛三先生のお弟子さんだった、安藤毎夫先生のことばを、僕に教えて下さいました。


行住坐臥(ぎょうじゅうざが)


 「行住坐臥、一切の事勢、これ最善の道場。」
 塩田館長が好きでよく言っていた言葉だ。塩田館長自身が書いた色紙も本部道場の館長室にあるし、また、事あるごとにこの言葉を引用していたので、内弟子はもちろん会員の人たちもたいていしっている。しかし、この言葉がどこからきたのかが、今一つはっきりしないらしい。

 時は、蒙古来襲があった鎌倉時代。大河ドラマでもおなじみとなった「北条時宗」は熱心な禅の修行者でもあった。禅の師であった宋僧無学祖元。ちょうど蒙古来襲があった1280年前後、対蒙古に備えて忙しい日々を送っていた時宗に、無学祖元が「禅の修業はしているか。」と質問した。時宗は「とても忙しくて修行している時間がない。」と答えた。そのとき、「行住坐臥、一切の事勢、これ最善の道場。その一生懸命やっていることが禅の修行そのもの。修行だと思って取り組みなさい。」という答えが返って来た、というものだ。


安藤毎夫著書『中心力の時代』P23.24
矢印マーク  安藤毎夫著書『中心力の時代』


塩田先生から渡された達人の切符。安藤先生のあたたかさは、正に天才。達人の切符を渡された、安藤先生のお弟子さんが書く本を読みたい!



行住坐臥(ぎょうじゅうざが)


 『禅は静中の工夫、武道は動中の工夫。行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、一切の事勢、これ最善の道場。カズキくんが一生懸命やっていることが禅の修行そのもの。武道や坐禅修行に片寄ることなく、日常生活でのこと、例えば仕事のこと、家庭のこと、友だちとのこと、これらを武道・坐禅修行だと思って、同じように取り組みなさい、ということだよ。』

「なるほど、そういうことだったのか。道場長、どうもありがとうございました!」

『じゃあね。』

よし、帰って日常のゴタゴタした問題に、しっかりと取り組んでみるぞ。

その前に、もう一度お復習(さらい)しておこう。


 人生は、小さなきっかけで、大きく転換していく。常に素直な心を失わず、平常心を保つことが大切で、これが勘や直感を働かせるコツである。

 人生の転換するところを見抜くのは、勘や直感で、勘や直感を取り戻すために坐禅をする。

 勘や直感で行動し、思い付きや助平心では行動しないよう気をつける。

 禅は静中の工夫、武道は動中の工夫である。

 行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、一切の事勢、これ最善の道場。一生懸命やっていることが禅の修行そのものである。武道、坐禅に片寄ることなく、日常生活の問題も、武道、坐禅修行と同じように取り組みなさい、ということ。



よし、明日から頑張るぞ!


こうして僕は道場長林KAZに感謝しつつ、家路についた。


一か月後、再び養心寺山門前道場へ


「道場長~!道場長~!」

(カズキの修行はつづく)
(2019.1.13)

↑ PAGE TOP

inserted by FC2 system