武禅修行へGO!

北斗神拳伝承之書

悟りを急ぐな! Presented by

北斗神拳を習得したいあなたへ

変わり者のあなたへ


 このサイトを見てくれているあなたへ。もしかするとあなたは、Webサイト『音楽について語るとき僕のいる場所』やその前身の『肴はとくにこだわらず(現在閉鎖)』を楽しみに読んで来た人じゃないかな。

 ボクも、実はこれらのサイトが超お気に入りでね。36歳の時、『肴はとくにこだわらず』を見付けた時の「これだ!」感は半端なかったよ。でさ、僕って思い込みが激しい方だからね、「このサイトに書いてあることを実践したら人生良くなるんじゃないか?じゃあ、これにかけてみるか!」ってな具合でさ、『肴はとくにこだわらず』の坐禅修行法(以下:養心寺の坐禅修行)を実践することにしたんだよ。

 わかってる。君も養心寺の坐禅修行法をやって、北斗神拳を身につけたいんだろう?でも、ちょっと待ってくれ。いきなり北斗神拳って言ったって、訳が分からないと思うから、一応色んな項目をボクなりに定義させておくれ。それから順を追って説明していくね。

ケンシロウとは菩薩のこと。


 先ずはケンシロウから。ケンシロウは、菩薩の比喩的表現である。。。菩薩は、悟る直前に位置する人のことであるから、勿論ケンシロウも悟っていないということだ。悟っていないボクだけど、ちょっとここで悟った状態について説明しておこう。その方が、これから提示する「悟りをいそぐな!」の警笛が聴こえやすくなるからだ。

 私の超訳では、悟った人は、物事がどうでもよくなる。

 少々乱暴な訳ではあるが、一言で表すと、これが一番しっくりくる。仏教用語を並べて、色んなうんちくを語りたくなるけど、それってボクの自己満足と知識マウントみたいなだからやめておくよ。しかも、目的達成にもあまり貢献しないからね。話を戻そう。

 悟った人は、普通の人のように焦ったり、恐怖を感じたりしない。少しは恐怖を感じるだろうけど、呼吸を整えてしばらくスーハ―スーハーしていれば、平常心でリラックスした状態を作り出すことができる。だから、悟った人は、何か追い詰められる出来事に遭遇したとしても、焦ったり生命の危機を感じたりして自分一人で何とかしようと悪足搔きしないし、できないんだ。 つまり、悟ってしまうと、意志による火事場のバカ力的な努力は、出来ない体質になるってこと。

 例えるなら、悟る前とは自転車に乗れない子供の頃である。一度自転車に乗れるようになってしまったら、バランスを崩してコケたり恐怖を感じたりできなくなる現象と同じである。つまり、一度悟ってしまったら、もう二度と悟る前みたいに「ヤバい!」と焦った後、「やるしかない!」と覚悟を決めて、「うおぉぉぉぉっ!」という風に継続的な努力ができない体質になるんだ。


 『それのどこが問題なんだ?わたしだって、そんなに頑張ってないよ』ってあなたは思うかもしれない。それはそれでいい。でも、あなたはまだ悟っていないから、これから頑張るかもしれない。つまり、可能性がある。しかし、悟ってしまったら、これ以上は頑張る必要性や必然性が無くなるからやらない。(もう一回言うけど、状況的にどんなに追い込まれても、調息で穏やかな気持ちになるから、無理して頑張るマインドにならないんだ。だから、無理な、若しくは無駄な努力はしないってなる。)つまり、もう、頑張らない。可能性が本当に無いんいだよ。。。

 瞑想ばかりして悟った場合、様々な問題は数多くあるけど、先ず一番の問題は、自己研鑽のルーティーンが確立していないことだ。

 つまり、無理して頑張れない体質になる前に、無理せず苦も無くコツコツと続けられる生活習慣を身につけおくことを疎かにするな!

 これまで私は、自己研鑽の努力を継続力と呼んできたが、習慣化してしまえばただの普通。やらなかったらなんか気持ち悪いって思う、ただの違和感。そう(爽)!、つまり、続けることはむしろ快なり!

 悟る前にやるべきことは、至ってシンプル。快感を感じるよう正しい生活習慣やルーティーンワークを身につけろってこと。つまり、行住坐臥を実践しろってこと。あなたには、悟っちゃう前に自己研鑽を楽しみながら習慣化してほしい。

 養心寺の坐禅修行の心得は、悟りを急ぐな!悟る前に瞑想ばかり一生懸命やっていると、悟った後、瞑想の習慣しか残らないぞ。

 瞑想に偏ったあなたへ。あなたにはクリアすべき夢や目標や、人生の裏のテーマを見つけ、それに挑戦しクリアして、達成感を味わう未来がまっているんだ。そして、愛を実感し、その後の瞑想からは、勇気、愛、平和などのメッセージを受け取り、受け渡す全体への奉仕活動が待っているはずである。しかし、あなたは瞑想ばっかりして、日常生活での問題からは目を背けてばかりいるね。このまま君が悟っちゃったら、精神安定剤の瞑想しか持ち合わせていない、禅定ゾンビになってしまいそうで心配しているんだ。人生は自己責任だから、それが悪いって訳じゃないけどさ、養心寺の門をくぐって、音楽について語るとき僕のいる場所を読んでいるのに、それはちょっと勘が悪すぎて、お節介を焼きたくなるんだよ。。。だから、ボクは警笛を思いっ切り鳴らすんだ。

ピィーッ!!!
悟る前の者たちよ、
瞑想に偏るな。
むしろ48歳になるまでは、行住坐臥一本で大丈夫だ!

 

悟りを急ぐな!悟る前に自己研鑽の習慣を持て!行住坐臥を実践せよ。

 
「 行住坐臥」
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安藤毎夫著書:中心力の時代

 「行住坐臥、一切の事勢、これ最善の道場。」
 塩田館長が好きでよく言っていた言葉だ。塩田館長自身が書いた色紙も本部道場の館長室にあるし、また、事あるごとにこの言葉を引用していたので、内弟子はもちろん会員の人たちもたいていしっている。しかし、この言葉がどこからきたのかが、今一つはっきりしないらしい。

 時は、蒙古来襲があった鎌倉時代。大河ドラマでもおなじみとなった「北条時宗」は熱心な禅の修行者でもあった。禅の師であった宋僧無学祖元。ちょうど蒙古来襲があった1280年前後、対蒙古に備えて忙しい日々を送っていた時宗に、無学祖元が「禅の修業はしているか。」と質問した。時宗は「とても忙しくて修行している時間がない。」と答えた。そのとき、「行住坐臥、一切の事勢、これ最善の道場。その一生懸命やっていることが禅の修行そのもの。修行だと思って取り組みなさい。」という答えが返って来た、というものだ。


安藤毎夫著書『中心力の時代』P23.24

自分を信じるとは、自分の運と勘に絶対的な信頼を置くことである。


 そもそも、我々現代人は、スマホによってたくさんの情報を受け取れるようになり、何が正しくて、何が間違いないなのかを判断しなければなりません。数多の情報からどれを選んで、あなたは人生をより良くしていくつもりですか?有名人?インフルエンサー?お金をたくさん稼いでいる人?他人の成功した話はそこそこ参考にはなりますが、あなたの人生の重要な判断をする時の物差しにはなりません。あなたがすべての判断において、絶対的な信頼を自分に置かなければなりません。自分を信じる上で重要な要素は自分の勘と運を信じているかです。ただし、慢心は禁物です。

 もし、あなたが自分の運について「良い」と思っていないのなら、それはマジでヤバイです。自分の運が良さは自分の主観が全てでありますから、いくら他人が客観的に見て、あなたの運が悪いと実感し、それを忠告してくれたとしても、それは余計なお世話か、ただの悪口に過ぎないのです。自分が「わたしは運が良い」と思うことは、誰もが否定できない聖域(サンクチュアリ)であり、圧倒的な自己肯定しか存在しない価値観なのです。だから「わたしは運が良い」と思えないのはヤバイんです。直ちに直した方が良いでしょう。私のおススメは神社仏閣巡りです。何なら御朱印も集めると良いでしょう。私はホームページ「肴はとくにこだわらず」で「33歳からの運のつくり方」という本を知りました。そして、この本を読んでこのように思いました。

 「運ぐらいは良くしておこう。ここに書かれていることは30代の内にちゃんとしよう」

「 運ぐらいは良くしておこうの誓いin Kagoshima Jingu」
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 36歳ぐらいだったと思う。鹿児島の温泉に旅行で来ていたオレは、個人商店の営む書店に入った。お気に入りのホームページ、「肴はとくにこだわらず」で紹介されている本を探すために。するとだ。こんな小さなお店に「33歳からの運のつくり方 」という文庫本があった。「やった!ラッキー!!」オレのテンションは爆上がり、最高の温泉旅行になった。そうだ!明日は鹿児島神宮に寄って帰ろう。これからオレは神社仏閣に行くことをライフワークにするぞ。

「ぜひ足を運んでほしい2つの神社」
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(文庫)33歳からの運のつくり方 (サンマーク文庫)

 もしあなたもやってみようと思うのであれば、ぜひいままで勤めた職場でかかわった人すべてを祝福することをお勧めします。実際に名前を書きはじめると、顔は思い出せるのに名前を思い出せない方も出てきます。そんなときは、「○○課にいた人」「○○社の営業マン」などと書いていきましょう。書き出すうちに、だんだん名前を思い出すようになっていきます、祈りの効果は神前で祈る方が表れやすいので、ぜひ神社に足を運んでください。この場合、箱根神社(神奈川県)か熊野本宮大社でお祈りすることをお勧めします。この2つの神域は、あらゆる願いをかなえてくれる万能の力をもっているのです。厳しいことをいってしまいますが、「遠いから無理だな」と思った方は、本気で変わろうと思っていないのでしょう。もちろん、人それぞれにタイミングがありますから、現実的にいますぐ行動を始めるのはむずかしい場合もあるとは思います。しかし、人生を変えたいと真剣に思い、お金も時間もエネルギーもかけて行動する人は、その行動に見合った結果が得られます。そして、面倒だからやりたくないという人は、そのままの人生が続きます。自分を変えるための垣根を越えるかどうか。それは自分で決めるしかありません。ただ、本気でやるなら確実に人生はよくなります。私は、心からそうお伝えします。

33歳からの運のつくり方 P138~140
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 この本を読み、この情報を知った人で、実際に実践した人は何人いるでしょう? 「ぜひ足を運んでほしい2つの神社」を行おうと考えた時、障害となる事項は3つあります。一つ目は時間とお金がそこそこ掛かること、二つ目は神社の場所が少し不便な所にあって行くのが億劫になること、そして最後の三つ目は、祝福の祈りが時間が掛かって後ろに並んでいる人に対して少し恥ずかしい気持ちになることです。したがって、リスクが無いと言っても大丈夫だと思います。とりあえず、多めに休暇を取って、近くまで行って、レンタカーを借りれば行ける訳です。祝福の祈りも、真剣にやってれば、周りの人たちもそっとしておいてくれます。

つまり、ここでは試すの一択のはずなんです。

 もし、あなたが神社仏閣での祈りの効果に対して確証を求めるなら、それは勘が悪すぎると言えるでしょう。

何かをする時、何かを実践してみて効果を上げる時、一番重要な要素は、本人のモチベーションの高さです。
たくさんの人たちに効果があったとしても、自分に効果がなかったらダメですよね。
沢山の人たちに効果があるから自分もやってみようっていう考え方自体、ズレていると思います。
「最近旅行に行ってないから、箱根か熊野にでも行って、サクッっと祝福の祈りをあげてくるか!」ぐらいのテンションじゃないでしょうか。
レンタカーを運転するのが不安だったら誰か友達を誘って運転してもらうだとか、例え知らない土地の運転に不安があったとしても、実際に運転してみれば結構うまくいったりするもんですし、お金を使えばタクシーでも大丈夫ですし、そこは何とでもなるんじゃないでしょうか。
 勘の良い人は、興味を持った時点で何も考えずスッと行動に移したり、何も考えずパッとやってみたりします。 偉そうに語っているワタシではありますが、かつては勘の悪い男の子でありました。23歳で武道修行を始めた私は、24歳で初段、26歳で弐段と、段位が上がる割に腕前が上がらないことに苛立ちを覚えていました。掛かり稽古にもかかわらず、私は相手に思うように技が掛けられないことを悔しく思っていました。そこで、達人について調べるようになりなりました。達人も武道を始めた頃は普通の一般人だったハズです。どこかで達人に変身したハズです。その秘密を調べ、同じ修行をすれば、私も必ず達人になれると思ったのです。調査の結果分かったことは、達人になった人はひたすら勘を鍛え、その鋭い勘を頼りに修行をしているというシンプルなものでした。結論、勘が良い人が達人になる。勘が悪いと愛好家で終わる。という、シンプルな結論に至りました。

「覚えて忘れる稽古」
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塩田剛三著:合気道修行(竹内書店新社)

植芝先生の教え方は、現在の指導法とずいぶん違っていました。


 その日稽古する技を、まず先生がやってみせるのですが、ただ手元の動きを見せてくれるだけで、言葉による説明はまったくないのです。
何をどうやれというふうには、けっして教えてくれません。
 私たちは見様見真似でその技に取り組むのですが、どんな格好でやっていても、先生は横で「ああ、けっこうや、けっこうや」と言うだけです。
何がけっこうなのか自分では、わかりませんから、とっても困りました。
 不親切といえば不親切な教え方ですが、もともと先生は、武道とはそういうものだと考えていらしたようです。

参照: 塩田剛三著『合気道修行ー対すれば相合すー』P165.-P166

 昔の達人の指導方法は、やり方をみせて、言葉による説明は全くしないという徹底ぶり。「本当にこれで達人になれるの?」って思うかもしれないけど、勘の良さがズバ抜けていくから大丈夫!だたし、習った人全員が達人になることはない。しかし、確率は常に五分と五分。自分が達人になるかならないかだけだから。

身体で悟る。生涯無敗と謳われた「国井善弥」
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Wiki:国井善弥

 血色のよい童顔に、鶴のような身体。

ジロリと睨まれただけで、身が竦むような威厳。齢80を超えていたとはいえ、新陰流の「佐々木正之進」の存在感は圧倒的であった。

「相当な変わり者」


茨城県下の山中に隠棲していた正之進には、そんな風評もあった。そこへ弟子入りしてきた「国井善弥」19歳。明治27年(1894)、福島県に生まれた善弥は、8歳のおりから祖父について、そして厳父に家伝である「鹿島神流」を学んできた武道一筋の男。その彼が、佐々木正之進の秘剣を習得せんと、意気揚々、門を叩いたのであった。

◎意味不明の用

 入門した初日、善弥はいきなり肩透かしを喰ってしまう。当然のように稽古を期待していたのだが、正之進にその気はまったくないようであった。

「何を持って来い。ついでに何もじゃ」

師・正之進は、弟子・善弥に、意味不明の用を命じる。

 はて…? 

「何」とはなんだ?

住み込んだばかりの善弥に、師匠の日常生活など皆目見当がつかない。善弥が戸惑っていると、いきなりカミナリが落ちた。

「たわけ者! それぐらいのことがわからんで、真武の修行が積めるか!」

師・正之進は吠えるように、善弥を一喝したのだった。


◎カン

 「何を持って来い。ついでに何もじゃ」

翌朝、しなびた頬を伸ばしながら、師匠は同じ問いを繰り返した。

さて、どうしたものか?

まごまごしていると、またカミナリが落ちてしまう。いささか捨て鉢になった善弥は、適当に「新聞とメガネ」を師匠に持っていった。

善弥のカンは当たったのか、外れたのか?

とりあえず、この場は落着したようであった。

◎裸馬

 「何に行く。お前も一緒に連れて行くから、何に、何に、何を用意しておけ」

禅問答にもならぬ師匠の不可解な命令は続く。

もしや…、鮎釣りか?

直感のままに、善弥は「釣竿と釣りエサ、そして弁当」を用意した。ほどなくやって来た師匠は、ギョロリと大きな眼をひんむいたが、その表情は満足気にも見えた。

しかし、善弥が「よし!」と思った刹那、「たわけ者! 何はどうした?」との一喝が飛んできた。

わけが分からない。

だが、返答を躊躇すれば、また吠えられる。

「はい! 用意してあります」と善弥。

完全に口からデマカセである。

たまたま馬のいななきを聞いた善弥は、馬を用意した。だが、身支度を終えた師匠がさっさと姿を現してしまったために、「鞍」を置く余裕がなかった。

とっさに言い訳をする善弥、「先生、本日は新陰流の馬術、裸乗りの極意をご教示ください」。

冷や汗をかきながらも、鞍がないのをごまかした。

ニヤリと師匠・正之進。

善弥も少しずつ、要領を得始めていた。

参照:英考塾 不在文字、不離文字

 達人になる人は後先考えずにスッと行動に移したり、パッとやっちゃう人が多いんです。「間違っていたらどうしよう」とか「本当にやっていいのかな?」とか悩みません。つまり、私たちも達人になる人と同じスッキリとした思考回路を形成しなければなりません。 言い換えれば、私たちに必要なのは自己確立です。自己確立した状態は、無条件で自分を信じている状態、根拠のない自信を持っている精神状態、圧倒的自己肯定感の高さを誇っている状態です。つまり、自己確立し自信がある人は、不確かなものごとをやるときも、普通にスッと行動に移せたり、パッとやれたりするのです。つまり、考え込む前に体を動かせるのです。結果としてそれが自分の運と勘を更に高めてくれるのです。

 私たち禅者に求められているものは、自分を信じて行動することが普通であることです。

 つまり、私たちは、禅を修行する前は、自分が信じられず、他人が正論っぽいことを言ってきたら、先ずは自分の考えを疑いはじめます。そして、少しずつ不安が大きくなっていきます。自己不信と不安が増大し、焦りが限界に達した時、他人の意見に鞍替えをします。そして、言われた通りに行動して、不安から逃げようと頑張る。これが普通です。なぜなら、私がそうでした。 だから、失敗したら人のせいにしました。 不安から逃げているので、上手くいっても達成感や手ごたえを感じることはありません。ホッとするだけです。 アドバイスをくれた人に感謝をすることもありません。なぜなら自己肯定感が低下しているから、それを補うために承認欲求が強くなっているからです。つまり、プライドが高くなって見栄っ張りになっています。だから、「どうもありがとう」と言うよりも「どうだ!オレもすごいだろう!」と言いたくなるのです。 つまり、感謝できないマインドであるから、身にまとう空気、醸し出すオーラ、にじみ出る人間性も濁ったものになります。 結果として、爽やかさが無い人間だから、誰もよくしてくれないんです。 ちょっとした気遣いを誰もしてくれないから、運が悪いと感じる頻度が上がるんです。

 我々が人生をよくするためには、こういう自分の普通を変えて、空気すら変えていかなければなりません。 つまり、坐禅で人生を変える方法は、無意識の壁を打ち破り、普通を変えていくことから始まるのです。

当たり前のことは普通のこと


「“普通”は意外に難しい」
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 ここに美味なる“おはぎ”がある。
作ったのはとあるおばあちゃんだ。このおはぎ名人に、どのようにして作ったのかを尋ねると、おばあちゃんはこんな風に答えてカラリと笑う。

「なんてことはないの。普通に作っただけなんだから」

これまで塩加減た小豆(あづき)ともち米の銘柄やその炊き方などの詳細なレシピを教わった人はいたけれど、誰一人として、おばあちゃんの言っている“普通”の正体を突き止めることはできなかった。このおはぎ名人のおはぎは、おばあちゃんの死後には誰も食べられなくなるだろう。いや、もしかしたらレシピさえ残しておけば、“普通”の正体を暴き出し、おはぎ名人の味を復活させる者がいずれ現れるかもしれない…。

肴はとくにこだわらず:【坐禅作法88】無意識の壁

 私も不思議な普通を知っています。例えばこう言うこと。
「存在自体“普通”の食堂」

 とある観光地にある地元B級グルメの個人食堂。
休日には行列ができる昔からの人気店であるが、別に特別いいお店ってわけでもない。
机も床も油のせいか何かとべとべとしているし、店内は全体的にほこりっぽいし、決して衛生的とは言い難い。
食堂内を見渡せば、クマが鮭を咥えている木彫りの置物、ラッセンのジグソーパズル、黒鯛の魚拓、観光地のペナントや提灯のお土産など、家主の私物が至る所に転がっていて、整理整頓がどうこういう以前の問題で、むしろ散らかっている。
肝心の料理はズバ抜けて美味しいわけではない。
空腹だから美味いけど、たぶん小腹が空く程度なら普通。
家庭料理の延長上で味付けは濃い。
量は少し多いぐらいで普通の範囲。
値段は観光地価格だから、決して安いってわけでもない。
つまり、すべてを加味しても「普通」。
何なら少し、店内は汚くて、味付けも濃い。

でも、この食堂の存在理由は「美味しいから」だとか、「サービスが良いから」だとかじゃない。
なんというか、この食堂は「観光地の一部」というか、「地域社会になくてはならない存在」というか、「ここにあること自体普通である」という感覚にさせてくれる不思議な空気を持っている。
店主と奥さんの印象も笑顔の「ありがとうございました」以外特にない。

Rin Kaz とある観光地の食堂の感想

 少し、感謝について触れておきたいと思います。

 感謝の念はもちろん大切ですが、ここでは「感謝すれば上手くいく」というような簡単な論理を言いたいわけではありません。

例えば、、、もし、あなたが誰かに親切なことをした時にです。その誰かは、あなたに感謝の言葉を述べてくれるでしょう。それは「ありがとう」とかです。その時、あなたはその「ありがとう」を聞いてどう思いましたか?

 ここにあなたの普通があります。そして、ここには、あなたの当たり前が隠されています。

柳田国男「しつけ」
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写真Wikipedia参照
 「あたりまえのことは少しも教えずに、あたりまえで無いことを言い、又は行ったときに、戒め又はさとすのがしつけの法則。」

田嶋一他著、『やさしい教育原理 第3版』P35柳田国男「教員の原始性」より

 当たり前のことは、言い換えれば普通のことです。普通とは辞書で「特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること」とあります。私たちが持っているそれぞれの当たり前は、親や家族、地域社会、人生の経験など、日々の生活の積み重ねの中で培われたものです。当たり前のこと、普通のことは、家族や仲間、会社や部活など、私たちがその時々で所属する集団において、言葉にしないもののなのです。

 あなたは、目の前の誰かが言った「ありがとう」の言葉から、どの様な思いや感想を感じているでしょうか? 別に、あなたが今思い出せなかったり、上手く言葉にできなかったとしも、それはそれでかまいません。しかし、目の前の誰かが、あなたに言った「ありがとう」の言葉から感じる気持ちや感想は、あなたがよく表現する「ありがとう」の気持ちでもあります。 「吐いた言葉が自分に返って来る現象」をあなたは実感したことがありますか?このことを因果応報と言い換えることもできるでしょう。「音楽について語るとき僕のいる場所(以下:音の場)」においてこのことを二指真空把で比喩してあるとあります。

「二指真空把」
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 北斗神拳の奥義には二指真空把がある。矢を放った人間にその矢がかえってくるぞ。
 by レイ『北斗の拳』―「第71話 その秘孔縛を解け!の巻」より(参考:音の場)

 あなたの「ありがとう」に隠されている無意識の普通とは、どの様なものでしょうか?私のおススメは、命を助けてもらった時の「ありがとう」です。私が「ありがとう」と言う時は、必ず助けてもらったことを思い出すようにしています。

バブルソ「kajitu」2021

ここに「助けられたのを数えてみた」とあります。あなたは数えてみましたか?

 小学5年生の夏、私は、家族と近所の友達の家族と共に海へ遊びに行った。その海で、私は生まれてはじめて足がつった。 しかも、足が着かない場所で浮き輪なども持ち合わせていなかったから、ビックリしたし、焦ったし、極限まで取り乱しながら「助けてくれぇ!足がつったんだぁ!ヤバイ!ヤバイ!」と叫んでしまった。 だから、周りの友達らは「ウソでしょ?」「冗談はやめて~」と笑いながら私を見るだけで何もしてくれなかった。 『死ぬときって、こういう感じなんだ。。。本当の命乞いなのに、人は笑って何もしないんだ』と思いながら、 みんなに笑われる中、私は一生懸命溺れていた。 そんな中、小学二年生の妹が浮き輪を持って、一生懸命平泳ぎで近づいてきた。そしてその浮き輪を私に投げてくれたのだった!  私は妹の浮き輪にしがみついたものの、足が動かせないから沖に流されていった。 「足がつってるから陸まで連れていってくれ~!」と私は妹に頼んだ。妹は私の捕まった浮き輪を平泳ぎで押しながら、浜辺まで連れていってくれたのだった。 妹よ、あの時は本当にありがとう。

 また、このようなこともありました。東日本大震災の直後の出来事です。私は民家に流れ着いた瓦礫を撤去するボランティア活動をしていました。私は仲間らと老夫婦の民家の清掃をしていました。作業が一段落し、休憩していた時です。家主のお父さんが「皆さん、ありがとうね」と言いながらタバコを吸っていました。正確にいうとタバコはシケモクの状況を既に終え、フィルターを焦がして何とか煙を出している状況でした。私はタバコについてお父さんに聞きました。津波が来てからの二週間は、物流がストップしてしまい、買うことができない状況であると。また、緊急の状況なので、救援物資にタバコは入っていないということ。また、自動販売機は壊れているか、壊されているかで買うことができないということ。噂では、仙台に行くと買えるらしいが、車もダメになったし、ガソリンもないから移動できないとのことである。偶然にも、私のカバンの中には、仲間に頼まれて買ってきたタバコが二箱カバンにありました。 「おとうさん、これどうぞ。仲間に頼まれたんだど、もう帰っちゃって会えなかったから。オレ、タバコ吸わないから代わりにもらってください。」と、二箱のメンソールのマルボロを渡しました。お父さんはメガネを外し、涙を指で抑えながら「ありがとう…本当にありがとう 」と言ってくれました。当時の私にとって、タバコは何の価値もないものだったから、お父さんの感謝の念の深さには心底驚いたものでした。

















※※※更新作業中※※※※

(2023.8.8~2023.12.24)



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