武禅修行へGO!

武禅修行へGO!

30代、蒼い旅路 Presented by

〜原点〜

(1)線香とお寺、灸(やいと)と保育園

保育園は地獄


 僕が小学四年生の頃、引っ越し転校した。父親はサラリーマン、母親も共働きで、妹は幼稚園児。今まで僕たちは祖父母の家で生活していたが、次男の父親が家を建てたのが切っ掛けだ。

 引っ越し先は田園地帯の祖父の家から約5㎞離れた同じ市の市街地で、僕の小学校区が変わった。たかだか5㎞移動しただけで、僕の人生は大きく変わった。

 僕はウルトラマンやキン肉マン、戦隊ものに仮面ライダーと、正義のヒーローに憧れていたから、僕の遊びは、おじいちゃんの山で秘密基地を作り、石槍や竹で弓矢を作り、木や石を叩いてパンチやキックを鍛えることだった。他にはカブトムシを捕まえたり、魚釣り、ザリガニ釣りをした。

 小学三年生の頃、なぜか冒険に出たい衝動があった。僕はお弁当に分厚い卵焼きをつくり、知らない場所を求め山へ行き、河を渡り、そこへ辿り着くまでの道のりを覚えるのが好きだった。

 祖父母は仏教に熱心で、朝の礼拝とお水を代えることを日課としていた。この祖父母の影響からか、僕はお土産でもらった小さな奈良の大仏を秘密基地に奉り拝んでいた。

 祖父は戦時中、学校の校長先生で剣道四段。とても厳しい指導をする人で、祖父の名は田舎街では誰もが知っており、回りからは絶大な尊敬を集めていた。

 僕は祖父の意向でお寺の保育園に行くことになる。お寺の保育園では週に一度、阿弥陀如来にお経を唱え坐禅をする。

 今では考えられないが、あの頃の保育園には、先生が居ない時間帯があった。その時の園内は無法地帯と化す。大人がいなくなると意地悪を始める奴ばかりで喧嘩もしょっちゅうで気持ちが全然落ち着かない。お寺の保育園は地獄だった。僕は行きたくなかった。

原点


 嫌な思い出ばかりの保育園だったが、ここが僕の原点だ。僕は五人の子どもたちから保育園に行く度に意地悪をされていて、僕はこれが嫌で嫌で仕方なかった。

 僕はいじめっこのボスに、「これをあげるから、意地悪をしないでね」とキン肉マン消ゴムを渡していた。三、四歳の僕は中国の周辺諸国が皇帝に行う朝貢のようにキン消しを納めた。

 僕が朝貢した皇帝は徳の少ない人物で、すぐに約束を破り、「またキン肉マン消ゴムを持ってこい」と言う最低の奴だった。

 悪いことをすれば必ずその報いを受ける。風の噂で皇帝は後の阪神淡路大震災で命を落としたらしい。

 僕は「意地悪されるから行きたくない」と母親に何度も言ったが、その度に保育園に送り込まれた。僕はどうすれば保育園に行かずに済むか考えるようになった。

「悪い子にはお灸をすえる」


 母方の実家は父方の実家から約10km離れた更に田舎で、そこには一つ年上の従兄弟がいた。僕はその従兄弟と仲がよかった。泊まりで遊びに行くと次の日保育園に行かなくて済む。僕は保育園に行かないためにも従兄弟と遊ぶことに拘るようになった。

 しかし余りにも頻繁に僕が泊まり込むものだから、母方のおばあちゃんは「何か怪しい」と勘繰り始める。

 「何でこんなに泊まりに来るのか?」と聞かれた母が、「KAZが保育園に行きたがらないから」と答えた。僕はこれが切っ掛けで厳しい躾を受ける破目になった。

 厳しい躾とは線香での灸(やいと)だ。今灸(やいと)をすれば虐待だろう。当時は軽い気持ちで文字通り「悪い子にはお灸をすえる」時代だったから恐ろしい。僕は今の現代に生まれたかった。

 灸はとても熱くて痛い。初めての灸の熱さと痛さで、僕は泣きながらあっさりと保育園に行った。

これが僕の一番の過ちだった。

これは仕方ないと言えば仕方ない。しかし母からすると今まで言うことを聞かなかった子があっさりと保育園に行ったことから「灸(やいと)は効果が高い」と認識してしまった。

 父方の実家で僕が「保育園に行きたくない」と駄々をこねた時、母親はさすがに父方の祖父母の前で灸をする訳にもいかない。
 これまでは僕が保育園に行きたくない理由から従兄弟と遊ぶのを口実にした母親の実家へのお泊まりが、今度は僕を保育園に行かせるための灸(やいと)をするお泊まりになった。

 母親の発想の転換が楽しいイベントを地獄のイベントに変えた。

灸で、もう一つ悩み苦しみが増えた


 何度も灸をされて何となくではあるが、分かるようになった手順と順番がある。

 それは僕が灸に屈して保育園に行くと、翌朝も「灸をするぞ」と脅しを受ける。脅しを恐れて保育園に行くと、更に翌朝もまた「灸するぞ」と脅しを受けてしまう。

 これでは最初の保育園に行く行かないの問題の前に、灸をするしないの問題が増え、もう一つ悩み苦しみが増えたことになる。

 僕はこの悩み苦しみが増える理屈が分かった。次からは灸に挑戦し、絶対に屈しないと決めた。先ずは最初の悩みだった保育園に行く行かないの問題だけの状態に戻す。絶対に保育園に行かないためにもどんなに熱くて痛くても我慢すると決めた。

 そうは決めても灸は熱くて痛い。長い時間我慢できても、屈してしまっては意味がない。翌日、母もおばあちゃんも遂に諦めたのか、そこまで長い時間我慢する前に灸は終わり、その日は保育園に行かずに済んだ。

三十代勝負できたのはこの時身につけた悩み苦しみの教訓と我慢と根性のおかげ…かもしれない


 お線香を見るといまだに灸を思い出す。三十代の勝負どころで勝負できたのは、この時身につけた教訓と我慢と根性のおかげだろう。あの頃の恨み辛みはもうない。今となっては母とおばあちゃんに感謝せずにはいられない。

 三、四歳の時、悩み苦しみの教訓と我慢と根性を手にしたにも関わらず、僕は社会に出る二十代に人生の豊かさを実感できなかった。人生を豊かにするには“これ以外の何か”が必要なのだ。


三、四歳で手にしたもの
1.悩み苦しみの教訓
一度でも脅しに屈すると悩み苦しみが一つ増える
2.我慢
3.根性



 僕は二十七歳のクロスロードに立ち、“これ以外の何か”を探し始めた。

 人生は二十九年周期だとすると僕の一周目は多くのツケを残してしまった。

 僕は三十六歳に『肴はとくにこだわらず』の記事に刺激され、三十代に持ち越したツケの精算と三十代の運命の試練をクリアするため、やるべきことの続きを振り返り始めた。

 人生は一度しかない。誰かと比べた幸せよりも、自分の中にある『本当の幸せとは何か』もう一度探しに行くことにした。

金のないスネ夫


 灸(やいと)のイベントは無くなったが、その後も皇帝やその子分四人に意地悪をされていたことをしっかりと覚えているから、保育園にはそれなりに通ったようだ。

 ある日皇帝やその子分四人にいつもどおり意地悪をされていた。
 何かの拍子で皇帝と三人が姿を消した。
 取り巻きの一人はいつもの調子で僕をバカにしたり、叩いたりちょっかいを出したりして楽しんでいた。

 こいつは“金のないスネ夫”みたいな奴で、皇帝であるジャイアンの威を借りては偉そうするただのお調子者だった。

 「そうだ!今スネ夫一人だ。誰も見ていないから仕返ししよう!」

 思い立ったら吉。

 昨晩祖父がテレビで観ていたボクシングを思い出した。印象に残っていたのはボディアッパーを打ったシーンだった。

 「これだ!」

 そう決めたら急にドキドキした。

 スネ夫はとても楽しそうに、僕に悪口を言いながら叩いて来た。僕はかまわずテレビで観たとおりのパンチをお腹に打ち込んだ。僕の拳はスネ夫のお腹に突き刺さった。

スネ夫は「うっ!」と息を詰め崩れ落ちた。少し時間が経ち、息が出きるようになるとスネ夫は大声で泣き出した。

 スネ夫の大きな泣き声に驚いた先生たちは、あわてて走り寄って来た。

 ビックリした僕は「まずい!悪いことをした!叱られる!」と泣いてしまった。

 実は取り巻きの一人が僕がスネ夫を殴るのを遠くから見ていた。見ていたこいつは山下清にそっくりなのでキヨシと呼ぶ。

 キヨシは嬉しそうに走り寄って来て、僕がスネ夫を殴ったことを一生懸命チクっていた。

 しかしキヨシの語彙力は低く、「あのなぁ、あのなぁ、バーン、あのなぁ」と何度も繰り返すだけだった…。

 先生は何も見えない聞こえないかのようにキヨシを扱い、スネ夫を介抱した。

 僕は一発のパンチでここまで騒ぎか大きくなるとは思っても見なかったから、暴力を振るうことが怖くなってしまった。 

 僕が一発のパンチで倒した事実はスネ夫とキヨシしか知らない。キヨシの語彙力では誰にも伝わらない。

 スネ夫は僕にやられたことを恥だと思っているらしく、誰にも言わなかった。

 僕は保育園の中で相変わらず大人しいキャラのままだった。

やっぱり自分の塗りたい色を塗らないとダメだと思った


 保育園は休みがちだった。

 節分の前日、僕だけまだ鬼のお面の色塗りをしていなかったから、早く保育園に行って先生と色を塗った。

 僕は黒鬼にしたかったけど、先生に「黒はダメ」と言われ、結局先生と同じオレンジ色を塗った。

 節分当日、皇帝やその取り巻きたちのお面は赤と青色だった。

 他の子のお面を見渡すと、やっぱり赤と青ばかりで、意外にもオレンジ色を塗っている子はいなかった。

 僕はこのオレンジ色の鬼のお面に全く愛着が湧かなかった。
 家に持って帰ると母や祖母は「上手に塗れているね」と褒めてくれたけど、全然嬉しくなかった。

 やっぱり自分の塗りたい色を塗らないとダメだと思った。

保育園でのやり残したこと


 僕は意地悪されるのが嫌で保育園に行きたくなかった。

 僕と同じような経験をし、意地悪されない強い“個”を作ることに成功した人物がいる。

 浪速のジョーこと辰吉丈一郎だ。

「負けを認めるな」


 いじめられっ子を卒業したのは五歳のときだった。きっかけといえるかどうかは分からないが、親父から「負けを認めるな」と言われたのが転機になったみたいな気がする。 

「ジョー、泣いてもなんでもいいから負けは認めるな。勝つとか勝たんとかの問題やない。とにかく負けを認めるな。とりあえずやってみい。そんなら自然に強くなるから」

これを信じてというわけではないが、そうしないと家に入れてもらえなかったという事情があったので、ボクはとにかく従うしかなかった。なにしろ僕にとっては家は一番楽しい場所だったのだから、これは大変な問題である。

辰吉丈一郎自伝 波瀾万丈 P24


「自分を信じなアカンで」


 事実、泣いて帰ってくると親父は家に入れてくれなかった。

 人間、あとがなくなると思いもかけない変身をとげるものである。幼稚園での態度も自然に変わっていった。

 あるときのこと、ボクは殴られて泣きながら気をつけをしていた。ずーと泣きながら殴られていた。すると殴っているほうも気味が悪いのか、それともあきれてか、とにかく殴るのをやめてしまう。そのうち
「なんや、こんなもんかいな」
ってな具合に、こっちに余裕みたいなものが出てきた。
「そんなら一回ぶん殴ってやろか」
という反抗の気持ちが出てきて、バンバンバーン・・・とやっちゃった。
「××くん、きょう泣いてん。ボク勝ったんやで」
「あたりまえや。それが普通や。そんなことはこれからもあるやろ。自分を信じなアカンで」
 親父には本当に感謝している。だからボクはいまでも自分のことを信用しているし、自分のことが好きだし、尊敬もしている。

辰吉丈一郎自伝 波瀾万丈 P25~26


親父のアドバイスがボクの生き方を変えた


 あの年ごろの子はパンチを受けた衝撃で倒れたり泣いたりするわけではない。痛かったり、ビックリして泣いたり倒れたりしているだけだ。が、そんなこと関係ない。殴って倒したら「オレってすごいやん」と、自信になる。
 
 こうなると一気に形勢逆転だ。保育園の運動会でも一番になったし、自分の性格も、まわりの態度もガラッと変わった。

 それまでバカにしていたやつが、「ジョー君、ジョー君」って集まってくるようになったし、保育園に行くのも急に楽しくなってきた。走ったらぶっちぎりで一番だし、ケンカもすぐに相手がいなくなった。以来、二十四歳になったいままでケンカで負けたことは一度もない。

もし、あのままいじめられて大きくなったら、ボクはどうなっていただろうと思うことがある。たぶん、いまだにビクビクしたままの人間だったのではないだろうかと思うことがある。

そう思うと、ちょっとしたひとことではあったが、あのときの親父のアドバイスがボクの生き方を変えたといえるかもしれない。

辰吉丈一郎自伝 波瀾万丈 P26~27

矢印マーク  辰吉丈一郎自伝 波乱万丈


辰吉 丈一郎
 元WBC世界バンタム級王者。
 レフェリーのリチャード・スチールが辰吉の引退時の賛辞として「オスカー・デ・ラ・ホーヤには若い女性ファンが何人いるか知らないが、あれだけ多くの青少年を夢中にさせるという点では、辰吉が世界一だと確信している」と呈した。(wikipediaより)



ジョーとの違い


 僕にはジョーと同じ保育園でいじめられ、イジメっ子を殴り返すエピソードがある。

 同じエピソードがあるにもかかわらず、僕の人生はジョーのように好転しなかった。スネ夫を殴り倒した後、ジョーのように「オレってすごいやん」と成功体験にできなかった。

 成功体験の代わりに「暴力を振るうことは危険だ」と教訓を得た。

 これが運命の分かれ道だ。

 たったこれだけの違いで人生は大きく変わる。

 ジョーは中学卒業後大阪で働きボクシングをする。

 そこで様々な失敗や経験をしたジョーは、今までの自分のルールは間違いだらけだと気づき、仕事やジムでの練習にそれらを活かしていく。

 自分を信じ、ウソや後ろめたさ無く行動するジョーはるみ夫人と出会う。

 るみ夫人はジョーの“才能覚醒の鍵を握る運命の女性”だ。

るみ夫人を得たジョーは、二十一歳で国内最短新記録(当時)となる8戦目で世界王座奪取に成功する。

 さすがジョー!

ぷっつんレディの類型モデル_『参照:肴はとくにこだわらず』

男が天職に就任するためにはひとりの天使にめぐり逢わなければならない。 彼女が天職遂行の翼を与えてくれるからだ。 ただし、それまでには何人かの運命の女― ぷっつんレディ ―との出会いと別れが待っている。

第一号は恋の手ほどきをするために現れる初恋の女。 ひとりの天使と出会うための予行演習をすることになるから、しっかり初恋するべし。

第二号は天職に就任するために訣別すべき世界の象徴として現れる女。 最も魅力的に映る。 決して彼女のいる世界には行くな。

第三号はファム・ファタール―男を破滅させる運命の女―と呼ばれている女。 天職を諦めるように男を誘惑してくる。 天職に向かう決意を固めて彼女の罠から脱出せよ。

そうして第三号と別れたときに現れる第四号の女が才能覚醒の鍵を握っている。
参照:【坐禅作法127】空気さなぎは21年周期で一子相伝の夢をみるのか

「やりたいこと」「やるべきこと」「やったこと」三つの一致


 同じエピソードを持ちながら、ジョーは二十代で才能を覚醒させ、僕は二十代を完全にくすぶらせた。

 僕がなぜ成功体験にできなかったかは、「やりたいこと」と「やるべきこと」、そして「やったこと」が一致しなかったからだ。

 せっかく勇気を出して行動しても、この三つの内の一つでも違うと成功体験にはならない。

 僕が「やりたかったこと」は意地悪をされた時に「やめろと言うこと」だ。

 だから「やるべきこと」も「やめろと言うこと」になる。

 実際僕は「やめろ」とは言わず、黙ってスネ夫を殴った。

 これは「やりたいこと」と「やるべきこと」は一致していたが、「やったこと」が違うため、成功体験にならなかった。

 スネ夫はただ僕の思い付きのせいで腹を殴られ、心に深い傷を負ってしまった…。(スネ夫、ゴメン!)
   
 ではジョーはどうだろう。

 ジョーの「やりたいこと」は親父から言われた「負けを認めないこと」だから、「やるべきこと」は「負けを認めないこと」。

 実際ジョーは、殴られても負けを認めず、ずーっと気をつけで立っていたから、「やったこと」は「負けを認めないこと」で全てが一致。

 「やりたいこと」「やるべきこと」「やったこと」の三つが一致すると、「なんや、こんなもんかいな」ってな具合に余裕みたいなものが出る。

 「そんなら一回ぶん殴ってやろか」という反抗の気持ちが出てきて、バンバンバーン…という次第である。
   
 たったこれだけの違いで、人生は大きく変わる。

「やりたいこと」「やるべきこと」「やったこと」の三つを一致させれば人生は良い方向へと進み出す。

 絶対に間違えてはいけないことは、やりたいことが本心から来る正しい願望であることだ。

 「正しい願望」とは決して「代わりの物をもとめること」ではない。

 そこを間違えると人生は大きく崩れ始める。

 代わりの物をもとめても最初はうまく行くかもしれない。

 しかし時間が経つに連れ、物事は次第にうまく行かない方へと行き始める。

 なぜか失敗することが増え出す。
 
 よくよく考えてみると将来絶対に不幸になる方へと突き進んでいる。

 まず最初の「やりたいこと」が正しい願望から来ているものかを洞察する。

 洞察の方法は心随観で過去を振り返るのがいい。心随観で洗いだされたやり残したことを一つ一つ整理して行くのがよい。

 やり残したことを進めて行った時、時間が経つに連れ、物事は次第にうまく行かない方へと行き始めた場合、やり残したことをすることは一旦やめ、再度心随観をすることをお薦めする。

 なぜか失敗することが増え出した場合や、よくよく考えてみると将来絶対に不幸になる方へと突き進んでいる場合も同様に、やり残したことをすることは一旦やめ、再度心随観をすることをお薦めする。

 僕の場合は「保育園に行きたくない」という願望だ。

 「保育園に行きたくない」と頑張れば頑張るほど灸(やいと)を受け、悩み・苦しみが増えた。

 悩み・苦しみが増えた場合、もっと根本的な願いが心の奥に隠されている。

 僕はスネ夫を殴り倒した後、「先生に叱られたくない」と怯えてたから、ケンカに勝ちたいわけではなかった。

 たった一言。「やめて」と言いたかっただけなのに、いつの間にか「やめて」と言った後のことを考えるようになった。

 声を出す勇気がないのを何かで補うために力や知識を求め、武道・武術・格闘技を習い、強くなったその恩恵で勇気を出さずにことを済まそうとした。

 一言最初に声を出す願いを忘れ、僕は身体を鍛えたり、勉強したり、絵を描いたりと色々空回りして来た。

 四十を迎え、ようやくこの事実を知った。

 歳を重ねるに連れ思い出すことも気持ちの整理することも増える。

 一番最初に願ったことを見つけだすために、心随観は三十代半ばまでにはとりかかるのがいい。

 「やりたいこと」と「やるべきこと」をあわせたら実際行動に移し、「やったこと」をあわせる。

 自分で実際に「やりたいこと」「やるべきこと」「やったこと」の三つを一致させて、「人生は良い方向に進み出すか」を確かめる。

 電脳山 養心寺 山門前道場に駆け込んだ武道修行者の皆様は、実際自分が取り掛かっている問題が正しい願望がどうか細心の注意で心随観と行動をしてほしい。

正しい願望を持つということ


 老子『道徳経』第九章の言葉に、盈満の戒(えいまんのいましめ):『功遂身退天之道』がある。

 『使命を果たして才能が枯れたら潔(いさぎよ)く勇退する』という教えだ。
 

『功遂身退天之道』
功遂げて身退くは天之道なり
(こうとけてみしりぞくはてんのみちなり)
使命を果たして才能が枯れたら潔(いさぎよ)く勇退する。
盈満の戒(えいまんのいましめ):老子『道徳経』第九章の言葉



 『僕をはじめ凡人は使命を果たして枯れる以前に才能すらない』

 『使命を果たすためには己れの才能を見つける必要がある』

 『肴はとくにこだわらず』では才能を発現させるためには“正しい願望の持ち方”を学ばなければならないと説く。

才能の発現は“正しい願望の持ち方”を学ぶこと


― 成就させるにふさわしい正しい願望の背後には特別な力が働いている。 その特別な力に導かれるようにして幾多(あまた)の願望を達成していけば最終的に己れの純粋な本性を知るという願望だけが残る。 その最終的な願望を達成するまで人は決して満ち足りてはいけない ―

 R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.113「実践的観点」をこのように要約している。


矢印マーク  参照:肴はとくにこだわらず
【坐禅作法89】自灯明 法灯明
林KAZの人生を変えたバイブル。勇気を出して実践あるのみ!

「使命を果たすと云うこと」


 ジョーはよく『僕のボクシングは作品。僕は作品を完成させる』 と言っていた。

 少年の僕には派手なKO勝利や華麗なアウトボクシングをすることぐらいにしか考えておらず、何のことかさっぱりわからなかった。

 1997年11月22日、ジョーはシリモンコンを倒し、WBCの世界チャンピオンベルトを取り戻す。

 いつの間にかジョーは『僕のボクシングは作品。僕は作品を完成させる』と言わなくなった。

 それはこのシリモンコン戦でジョーの作品が完成したからだ。

 

辰吉丈一郎の作品


 辰吉丈一郎の作品とは何か。

 それは父・粂二の教えが正しいことを世間に証明することだった。

 「やりたいこと」「やるべきこと」「やったこと」の三つを一致させれば、人生は良い方向へと進み出す。

 父・粂二の教えの集大成だ。

 ジョーが三年ぶりに王座に返り咲いてWBCのチャンピオンベルトを父・粂二に見せた時、ジョーの作品は完成した。

 僕はあの時人生で一番感動し心から涙した。

 YOUTUBEで何度観ても胸が熱くなる。
 
矢印マーク  WBC世界バンタム級TMシリモンコンナコントンパークビューVS辰吉丈一郎

日本中の若者が感動した!

その後の辰吉について


 1998年12月29日、辰吉は、ウィラポン・ナコンルアンプロモーションに6R 2:52、KO負けを期す。王座陥落後の1999年1月、父が他界。1999年8月29日、辰吉は、再びウィラポン・ナコンルアンプロモーションと戦い、7R 0:44 TKO負け…。試合後、「普通のお父っつあんに戻ります」と現役引退を表明した。しかし、日増しに現役続行への思いが強まり、後に引退表明を撤回。復帰へ向けて始動するも、周囲の反対もあり、再起まで3年以上もの期間を要する。(参照:Wikipedia 辰吉丈一郎

 賛否両論はあるが、ジョーはカムバックをする。

 「やるべきことの続き」をするために…。
 
 2002年12月15日、実に3年4か月ぶりの復帰戦。元WBAフライ級王者のセーン・ソー・プルンチット(タイ)を相手に復帰戦を行い、7回TKO勝ちを収めた。2003年9月26日、復帰第2戦でフリオ・セサール・アビラ(メキシコ)と対戦し、10回判定勝ちを収めるも、その後は負傷した左脚の回復が思わしくなく、再び長いブランクに入った。

その後、所属する大阪帝拳ジムから試合を組む意思がないことを再三にわたって告げられたものの、本人は引退を拒否。あくまで現役続行にこだわり続ける。

2008年9月26日、直近の試合から5年が経過。JBCの規定により「引退選手」扱いとなり、国内では試合を行うことができなくなった。しかし、本人は「海外に渡ってでも試合をする」とあくまで現役続行にこだわりを見せる。

そして、同年10月26日、タイ・バンコクのラジャダムナン・スタジアムで復帰戦を強行。地元の新鋭パランチャイ・チュワタナに2回TKO勝ちを収め、5年ぶりの再起を果たしたものの、この試合に関してJBCは試合から1週間後の11月2日、タイ・チュワタナジムのアンモ会長と対談し、JBCライセンス保持者以外の試合禁止を要請。

12月、タイ国内ランキングでバンタム級1位にランクイン。同28日、ライセンス失効後初めてJBCと対談。JBC側は大阪帝拳ジムが国外での試合も禁止したいとの意向を持っていると説明をした他、WBCと提携している米国の医療機関の専門的な検査を受けるように提案。それに対し、辰吉は「5年も試合をしてなかったので、今はどんどん試合をしてコンディションを上げていくことが大事。検査の意味は分かるけど、(引退を)決断することはできない」とあくまで現役続行にこだわる姿勢を見せた。

2009年3月8日、前戦と同じラジャダムナン・スタジアムに於いて復帰第2戦。スーパーバンタム級のタイ国内ランキング1位サーカイ・ジョッキージム(19歳/11戦10勝 (5KO) 1敗)と対戦するも、3回にダウンを奪われた末の7回TKO負け。世界戦以外の試合での初黒星(通算7敗目)を喫した。試合終了後、辰吉は「俺はまだ終わっとらん」とあくまで現役に拘り、今後もリングに上がり続けることを表明しているが、この試合以降、次戦開催の目処は立っていない。

2014年現在でも辰吉本人は現役に拘り、トレーニングを欠かしていないと言う。2015年には次男・辰吉寿以輝が大阪帝拳ジムからプロボクサーとしてデビューした。(参照:Wikipedia 辰吉丈一郎


辰吉の作品“2”


 国内最短新記録を目指し、8戦目(当時の最短記録)で世界王座奪取。その代償は大きかった。眼を患ったジョーのボクシング人生は“波瀾万丈”となる。

 「近道したら近道に潰される」

 『肴はとくにこだわらず』で紹介された矢沢永吉の言葉がある。

「近道したら近道に潰される」

参照:矢沢永吉に関する名言集・格言集



 ジョーがボクシング人生において唯一自分で決めて行動できなかったことは、国内最短新記録を目指すか、地道にキャリアを積むか、という世界チャンピオンになるまでの自身のキャリアの進め方だ。


 辰吉が世界王者になる前、日本人として具志堅の記録を追い越し最短で世界を獲ることに価値を見出すのではなく、辰吉の先々のことを考え、じっくりキャリアを積ませるべきだという声が多かった。トーレス戦後、特にその声は強くなる。辰吉自身も新人王、日本、東洋太平洋と順番にタイトルを獲ってから世界に行きたいと語っていた。 (参照:Wikipedia 辰吉 丈一郎)


 ジョーは自身のキャリアをどうすすめるかを自分で決めず他人任せにしてしまった。

 自身のキャリアの積み方で「やりたいこと」「やるべきこと」「やったこと」の三つを一致させていれば、後のボクシング人生がこれほど“波瀾万丈”になることはなかった…のかもしれない。

 この唯一の失敗が原因で、会長や関係者の助言に耳を閉ざし、頑なに「僕の人生だから後悔したくない」と、現役にこだわるようになった…のかもしれない。

ファン以外の冷静な眼で見れば、ガキのように駄々をこねてボクシングを続けるただの頑固オヤジに見える…のかもしれない…。

 確かにジョーは引き際を見失った頑固オヤジだ。
 
 しかし、ただボクシングを続けていたわけではない。

 引退表明の「普通のお父っつあんに戻ります」という言葉どおり、ジョーは普通のお父さんに戻った。

 驚くべきことに、ジョーの“やるべきことの続き”は、次男・辰吉寿以輝が受け継いでいた。
 
 あるスポーツ記事のインタビュー記事で、辰吉寿以輝はこのように答えている。

 『タイトル戦はやりたいですが、早くという気は全然無いです。ちゃんと力をつけてから
 
 記事の最後はこう締めくくられている。

 地道にコツコツのスタイルで、「ボクサー辰吉寿以輝」を完成させていく。
 
 辰吉丈一郎のボクシング人生が“波瀾万丈”なら、次男・辰吉寿以輝のボクシング人生 は、“地道にコツコツ”だ。

 辰吉寿以輝が世界チャンピオンになるかは誰も分からない。

 寿以輝について推測できることは、心境的には長谷川穂積と同じ“継続する力”の重要性を説いていることから、正しい生活習慣を身につけたウソのないやさしいストイックな好青年であろう。

 ジョーは父・粂二からの教えと自身の教訓、更にはウィラポンを倒した長谷川穂積の最大の力『基本を大切にしコツコツ続ける継続の力』の素質を子・寿以輝に託すため、父・粂二のように言葉をかけ、決して強制すること無く本人が自分の意志で行動するまで放任したのだ。

 普通の父親に戻ったジョーのやるべきことの続きは、ボクシングを続けながら子どもと接する中で進められていた。

ジョーのやるべきことの続き
 (1)キャリアの積み方について「やりたいこと」「やるべきこと」「やったこと」の一致

 (2)ウィラポンを倒した長谷川穂積が持つ「基本を大切にし、コツコツ続ける継続の力」を身につけること。現在も練習を続けているのは長谷川穂積と同じ心境の変化を興すため



 子・寿以輝はそんなジョーの背中を見て育ったにちがいない…。

 ジョーの意志を引き継いだ寿以輝は基本を大切にし、コツコツ続ける継続の力をボクシングで体現しようとしていた。

 “辰吉”は再び僕の心を熱くさせた。

矢印マーク  辰吉寿以輝

辰吉寿以輝
1996年8月3日、大阪府守口市出身。プロボクサーで元WBC世界バンタム級チャンピオンの辰吉丈一郎の次男。父・丈一郎がシリモンコンにKO勝ちした時、一歳だった寿以輝は父にリング上で抱き抱えられた。


 ウィラポンの「自身が戦った日本人ボクサー西岡利晃、長谷川穂積、そして辰吉丈一郎の三人について」のインタビュー動画がある。参考までに…。

矢印マーク  元WBC世界王者ウィラポンが辰吉、西岡、長谷川を語る!

1998年12月29日、大阪市中央体育館でWBC世界バンタム級王者辰吉丈一郎に挑戦。6回KO勝ちを収め、世界王座返り咲く。 1999年8月29日、2度目の防衛戦。大阪府大阪市西区にある大阪ドームで辰吉と再戦。序盤から一方的に試合を支配し、7回TKOで返り討ち。 2000年6月25日、当時"日本プロボクシング界最大のホープ"と称されていた西岡利晃と対戦し、12回判定勝ち。その後、西岡とは3度対戦し引き分け2、判定勝ち1。 2005年4月16日、日本武道館で行われた15度目の防衛戦で長谷川穂積に12回判定負けを喫し、6年3か月以上保持してきた王座を失った。

やるべきことの続きへ


 僕が保育園で見失ったものは、「やりたいこと」「やるべきこと」「やったこと」の三つを一致させることだ。

 ジョーの使命は「自分の心境の変化を起こした切っ掛け」と「過程」、「結果」を一つの作品として誰かに伝えることだった。
 ジョーはボクシングの試合やTV番組で、何度も勇気を出すよう働きかけてくれていた。

 父親譲りの放任指導のジョーは詳しいことを二冊の自伝「波瀾万丈」「続波瀾万丈」に書き記し、時期が来て読むまでの間じっと待っていてくれた。

 僕は少年の頃から大ファンなのに「波瀾万丈」は去年、「続波瀾万丈」は今年になってから読んだ薄情者だった。


 僕はジョーに憧れてはいたが、プロボクサーになって世界チャンピオンになるのが夢や目標ではなかった。

 ましてや武道・武術・格闘技で強くなることも最終目標ではなかった。

 僕がジョーに憧れたのは、イジメを受けて他人の痛みを知る優しさと、小さな成功体験をコツコツと積み重ねて来た自信から来るウソのない正直な姿だった。

 「やりたいこと」「やるべきこと」「やったこと」の一致。保育園で見失った僕の原点だ。

 
(2019.3.20)

↑ PAGE TOP

inserted by FC2 system